オマーンのIB校での経験

私は中1の途中から高1の終わりまでの3年半弱、父の仕事の関係で中東のIB校に通っていた。アメリカの現地校に2年間通っていた経験があり英検2級レベルの英語力があったため、転校当初から日常会話程度なら英語で何とか出来た。しかし当然その程度の英語力で授業についていけるはずもなく、さらに授業スタイルも日本のそれとは全く違い、特に最初の一年は苦労が多かった。 by 西野桃子(東京大学文科3類2年)

最初の数か月は自分の英語力の低さ故、わからない単語が多く苦労した。初めての宿題は記事(もちろん英語の)を読み、質問に答えるというものだった。まず記事を理解するのに時間がかかった。わからない単語を辞書で調べるのに時間がかかっただけでなく、わからない単語が多すぎて単語1つ1つの意味は理解できてもそれらをつなげて文章として理解するのに時間がかかってしまったのだ。そのあと、質問に答えるのにも時間がかかった。自分が考えていることを表現するほどのボキャブラリーが備わっていなかったのだ。結局その課題を終えることが出来たのは深夜の2時だった。その課題の内容は、イスラム教がキリスト教世界に与えた影響(アラビア数字、借用語など)についての記事を読み、それについての感想を書くというものだった。あまりにも大変だったため今でもはっきりと覚えている。
 
第二にIB校の授業にはディスカッションやグループワークなどの発言する機会が多いものが多かった。初めのうちは周りの言っていることや資料を理解するのに必死で発言する余裕など全くなかったのだが、英語力が上がるにつれ少しずつ余裕が生まれた。しかしそれでも私は発言できるようになるまでに時間がかかった。リスニング、リーディングなどの受動的な行為は比較的短期間で出来るようになったのだが、ライティングとスピーキング、特にスピーキングはなかなか出来るようにならなかった。与えられた英語の情報を理解できるほどには英語力が上がったが、自分から情報を発せるほどのレベルにはなかなか達しなかったのである。スピーキングに関しては今でも不自由を感じることがあるので今後も積極的に海外経験を積んで向上させたい。
 
このように苦労の多かったIB校生活だったが、確実に自分の糧になったと感じる。ディスカッションやリサーチを通して積極的に学ぶスタイルに最初は戸惑い、面倒くさくも感じた。確かに知識を身につけるという観点から見ると日本の授業のほうが効率的なのかもしれない。しかし、IB校の授業は私にさまざまな分野に興味を持たせてくれた。英語の授業で詩を読んだ際に詩には二重にも三重にも意味が隠されていることを知り、その深遠さに魅了された。貧困について学んだ際に “Cycle of Poverty” なるものの存在を知り、貧困問題の解決が一筋縄ではいかないことを改めて認識した。国際問題について調べ様々な視点からその問題について考察する授業を通して、物事には様々な見方があり、対立する勢力にはそれぞれ正当化された言い分があるということに気付き、国際問題の解決の難しさを感じた。どれも、日本の授業を受けていたら知り得なかったことだろう。IB校の授業は私の世界を広げてくれたのだ。
 
将来の夢は決まっていない。しかしIB校で培った好奇心を忘れず様々なことに積極的に挑戦していきたい。