東京大学理科2類合格! 受講生から嬉しい知らせ

学内講習で現代文を受講していたかえつ有明高校の男子生徒から、東大に無事合格しましたと連絡がありました。

高2生の春からずっと週1回の放課後講習と春夏冬の季節講習会を担当し、センター試験を終えてからは2次試験のために記述対策を集中的に行ってきました。とはいえ、現代文より英語が心配だったこともあり、最後の方では、現代文に費やす時間はなるべく省力化して、英語にエネルギーを注ぐようにとアドバイスしてきました。入試直前の週は、新型コロナウィルスの感染拡大を受けて学校が休校、予定していた最後の対策授業も中止となってしまいましたが、そんなアクシデントを乗り越え、実力を発揮してくれたのは、嬉しく頼もしい限りです。
 

さて、東大二次で出題された現代文の第一問は、小坂井敏晶氏の著作からの出題でした。すでに多くの方が問題分析をされていますが、私も気づいたことを書いてみます。
 
小坂井敏晶氏と言えば『民族という虚構』という著作が有名で、これまで多くの大学で出題されています。また数年前には、同じく小坂井氏の「責任―責任概念と近代個人主義」という論考が、早稲田の文学部で出題されました。自由は責任を要請するための社会的虚構であるとする主張は、高3の受験生でも結構理解するのに苦労するところであり、私も夏の講習会で必ず扱うテーマです。

今回の東大の出題は、早稲田文の出題とは出典こそ違いますが、主張は根本的には同じです。しかし、自己責任社会に関する批判はすでに20年ほど前のトレンドだったはずですが、なぜ今東大がこのテーマを出題するのでしょうか。
 
もちろん経済的格差による合格の不公平性といった問題も一つの理由かもしれません。アファーマティブアクションとか、メリトクラシーなどといった用語が文中に使われていることに注目すればそのような指摘も間違っているとは言い切れません。しかし、もしそうだとすると、出題する意図としては何か古いというか、物足りないものを感じます。東大に合格する生徒の多くが経済的に恵まれている家庭に育っていることはだいぶ前から指摘されていることです。

今回の出題意図は、そういうことよりも、学力であれ才能であれ、本来は社会的な産物(あるいは神様の賜物)と言ってよいものを、すべて個人的資質として内面化することの弊害を訴えている面が強いように感じます。

自分の資質は当然自分の所有物であるという見方からは、自分が受けた便益を社会に還元しようというモチベーションが生まれないのは当然でしょう。その影響が東大の中にも目に余るものになっているのではないでしょうか。本来研究であれ企業に就職することであれ、それは究極的には自分の才能を社会に還元することです。そのことが通じにくい社会になっているということが出題の背後にあるように思います。

なあんだ、結局は、正義論の文脈でよく言われる「負荷なき自己」の話みたいな古典的なテーマではないかと言われればそれまでなのですが・・・。

ともあれ、受験生は、問題と格闘している最中に出題の社会的背景を考える余裕などはありません。合格点を取ればまずは目的達成です。しかし、受験に携わる身としては入試問題から社会の変化を見通し、新しい授業ネタを構想するのは楽しいものです。さすがに若い頃のように、飲みながら同僚と議論するというのは気乗りがしないので、IB Japaneseの受講生とそんなことを対話してみるのもよいかもしれないと夢想しています。