「学校」の地殻変動⁻グローバルアドミッションの時代①

昨日カナダ人の先生と話をしていて驚きました。その先生の住んでいるオンタリオ州ではコロナでホームスクールを選択する人がたくさんいるというのです。ホームスクーリングがアメリカなどで広がっているという話は知っていましたが、驚いたのは、日常的な選択肢の一つとして、さらに言えば市民の当然の権利としてそれが存在しているという感覚です。

日本では学校のオンライン対応の不備が問題視されますが、「通学できないからオンライン」という学校側からの発想ではなく、「通学したくないからホームスクーリング」という、生徒や親の側からの要請にオンタリオの教育省が対応できているということに驚いたのです。

日本でも不登校に対して少しずつ寛容になってきてはいると思います。そしてそれをサポートする通信制高校の存在や、経済的に余裕のある人にとっては海外留学といった選択肢は、何がなんでも学校に通って卒業しなくてはならないといったプレッシャーを和らげてくれています。

しかし、カナダ(オンタリオ州)では届け出の手紙1枚で、すぐにでもホームスクーリングが可能になるというのです。教育が子どもにとっての権利であり、親にとっての義務であるということを端的に表している事例のように感じられます。

日本では「1条校」というカテゴリーの学校を卒業することで「大学受験資格」が得られます(もちろん「高認」という手段もありますが)。インターナショナルスクールは1条校ではないため、一般入試の受験においては制限を受けます。帰国生にとって切実な問題としてよく指摘されるのが、現地校やインター校を卒業しても、日本の学歴上は「高卒」にならないという現実です。実際には日本の大学受験の際に問題になることで、履歴書などでは海外の高校卒業であることが特別問題になるわけではないのですが、普通と特殊、本流と支流、あるいは正統と異端、のように分けていく考え方は時代に合わなくなってきています。地域の区立や市立の学校か、私立学校か、インター校か、海外現地校か、通信制高校か、ホームスクールかといった学校選択の問題なのであって、登校が「普通」で、不登校が「特殊」などといった考え方が古くなっているのだと感じます。

それにしても「公立」という言い方は紛らわしいですね。Goverment SchoolとかState Schoolに相当するものだとすれば、「市立」とか「官立」という方がしっくりするのですが。私立学校も含めた「公教育」、つまりPublic Educationの意味するところは、「市民に開かれた教育」を提供するという役割ということでしょう。イギリスのパブリックスクールはGovernment Schoolではなく、私立学校のことを指すのだったと思い出しました。これについてはまた別の投稿で考えてみます。