GLICC顧問として教育コンセプトのデザインをお願いしている本間勇人氏は、「私立学校研究」というブログを毎日更新されています。このブログ記事の中には、海外帰国生にとっても重要な示唆を与えてくれるものが多く、とても参考になります。今回ご紹介するのは「対話」についての記事です。
ふだん私たちは「会話」と「対話」を意識して使い分けをしているわけではありませんが、会話は「カンバセーション」の訳語で、対話は「ダイヤローグ」の訳語であることは、感覚的に知っています。そして、そもそもの語源的な意味はともかく、二つの言葉に思考の次元における違いがあることも体験的に分かっていると思います。あえて違いを際立たせるとすれば、「日常会話」と「哲学対話」とでもなるでしょうか。
海外で子どもの教育を考えるときに、この質の違いを意識しておくことは極めて重要です。日本語環境が家庭内に限定される場合、両親が日本語話者である限り「会話」はそれほど問題になりませんが、後者の「対話」については、相当意識しておくべき問題となります。
日本にいれば学校や近所で大人との会話は自然に行われます。あるいは、おじいちゃんおばあちゃんと話をする機会もあるでしょう。自然に目に飛び込んでくる新聞や出版物などの見出し、こういうものがトリガーになって、子どもの中でもう一人の自分との対話が起こり、それが子どもの思考を刺激するという環境は意識せずとも用意されています(その環境を活かせるかどうかは別の問題ですが…)。
一方海外では、学校では英語中心のコミュニケーション、近所の人や友人との会話も限定的で、身近な両親や兄弟との会話が中心です。こういったコミュニケーションではよく知っている人が相手であるだけに、相当意識をしておかないと「対話による思考」が刺激されないといったことになりがちです。
さらに対話というのは、話し言葉によって行われるばかりではありません。疑問を解決するために、探究が始まり、書物に向かうこともあるでしょう。その書物を通じて様々な考え方との対話も行われるのですが、図書館や書店がすぐ近くにない海外の環境では、探究活動を支えるリソースも不足しがちです。
だからといって、海外にいる時に子どもの探究心は決してなくなっているわけではありません。書物や対話に「飢えている」状態であるからこそ、そこが刺激されると一気に探究心が表れ出てきます。
海外生の特性をよく理解している学校の「対話思考」ができる教師が大切なのは、こういう理由によります。本間氏は、学校選びの基準として「対話思考」の重要性についても触れています。
海外帰国生の学校選びで重要なのは、このような観点なのです。「対話思考」を推進できる教師がいる学校、また「対話思考」が発揮できるような「思考コード」が共有されている学校に入ると、子どもの思考はどんどん刺激を受け、スポンジが水を吸い込むように実力を発揮し始めます。
私自身、帰国生を相手にして小論文の指導を20年近く続けていますが、日本語母語の帰国生に必要なことは、「てにをは」の添削などよりもむしろ、対話思考を発揮させることに尽きると断言できます。
対話の質がよい学習環境にいると、結果的に生徒の学力も向上していくことは間違いありません。